| 序・目次へ 四章、君主を内包する自我ー君主制の社会的評価を越えて |
五章、君主の内包の意味するもの人々が君主を、彼から何等利益享受が期待出来ないにも拘らず、愛してしまうのは、人間の想像力の右のような働きに関わっている。しかし、この愛の理由は何時も、君主と人々とを、そして君主と人々の関係を考察する観察者とを、互いに外在する存在として始まる所謂客観的方法によって説明されようとして来た。問題は、「君主」が政治的な役割を演じてきた時間が長かったために、〈想起される君主〉すら政治的なものと見做してしまった点にある。その結果、想像力の豊かさが無知に、自己の尊重が自己の放棄に、取り違えられてしまったのだ。ところで、右に描いたような想像力の働きは、決して意志的に惹起されるのではないという点を留意しておきたい。君主制の内部で、人々は他に方法がなくて、仕方なく想像力に或る鍛錬を加えて辛うじて自由を確保している等といった事態が生じているのではなく、右の想像力的活動は人間存在の先験的要素に負うて誕生するのだ。この活動の背景には、自我は静的に存在するものではなく、絶えず拡張への傾斜を孕むものとして存在するという事実が、比喩的に言えば誰もが王になりたいのだという事実が、隠れているのである。先に、自我は自我が所属している物理的存在としての自己の領域を拡張することが出来ると述べたが、それは実は可能性である以上に必然性なのだということを、ここで注意しておきたい。 自我を持つということ。それはとりもなおさず、自分が自分以外の他のものではないという意識を得ることに他ならない。ところで、この意識はどの様にして得られるのだろうか。つまり、人は(犬は、或はミドリムシは、と言っても同じことだ)自己と自己以外のものとをどの様にして区別するのだろうか。この区別が意識に向かって先験的に与えられたものでないことは確かである。なぜなら、仮に区別が先験的な所与であるとするなら、在り得たかも知れない自己を想って後悔し、在り得るかも知れない自己を予想して不安になるといった心的作業が生じる余地はないはずだからだ。人が自身について思い悩むというそのこと自体が、人が自己を経験的に、言い替えれば変化の可能性のさなかにあるものとして、扱っている証拠なのである。自己と自己以外のものとの区別は経験的に為されるに違いないのだが、しかし、どの様な経験によって区別は為されるのだろうか。 言うまでもないことだが、自己が自己以外のものと全く無縁に存在し、それと関わりを持たないなら、右の区別が確認されるはずはなく、自己が自己の存在を意識することさえあり得ない。自我意識とは、自己と自己以外のものとの接触に於て初めて生じるのである。ところで、この接触に於て自己は必ず損なわれるという点に留意すべきであろう。なぜなら、何かが知覚されるという場合ですら、与えられる刺激によって自己はそれ以前の状態から変化させられているのだから。つまり、自己が自己以外のものによって制限を受けた時、自己は初めて自己と自己以外のものとを同時に知るのである。 だから、自我意識とは自我の不自由の意識であると言ってよい。ところで、この様に考える時、自我の本質的な在り様も亦、明らかになって来るのではないだろうか。自我は世界の内部に存在し、それ以外には存在し得ないのだから、言い替えれば自己以外との接触を欠いた自我は存在しないのだから、自我とは、常に自分が満足すべき状態ではないと感じている存在なのだ。故に、より強くより自由になろうとする意志こそ、自我を自我たらしめているものなのである。自我がその様な属性を持つというよりも、そうした述語的形式こそ自我存在の一切だと考えてよい。つまり、自我とは、世界を変更したいという絶えざる試みに於て立ち現われて来るものなのである。自我が、絶えず拡張への傾斜を孕むものとして存在するというのはこのことだ。こうした自我の存在の姿を、ニーチェは「力への意志」という言葉に要約した。 生はわたしに、みずからつぎのような秘密を語ってくれた。「ごらんなさい」、生は言った、 「つねに自分で自分を克服しなければならないもの、わたしはそれなのだ。ここでニーチェは、自己の存在が意識される時、その意識に於てそれが了解される一般的な姿を語っているのであり、決して固有の思想的姿勢を語ったのではないということを、留意すべきであろう。比喩をもう一度繰り返せば、世界には王になりたい人間がいるのではなく、人間であるとは王になりたいことに他ならないのである。 人々が君主制を愛する理由はもはや明らかであろう。自我は平等なぞ望んではいないのだ。自我の望むものは優越=絶えざる優越の実現である。だから、物語が平和や平等思想の啓蒙を目指して創られる場合にも、戦いと英雄の主題が必ず忍び込んで来るのだ(注45)。人間性が彼等を呼び寄せるのである。そして、物語が通俗的であるなら、即ちそこに用いられる素材の現実的印象に依存して作品世界が支えられているような物語なら、その主人公達はしばしば、王や女王、或は皇子や王女といった称号を得ることになるのである。それこそが、感情移入を遂げる読者の自我に用意された特等席なのだ。 では、現実存在としての君主を自らの外部に発見した人々はどうするのだろうか。つまり、君主制下の「人々」が君主に注意を向けた時、彼はどのように君主を扱うのだろうか。二つの選択肢が考えられるであろう。第一は、王位を簒奪し自らが即位することである。第二は、既に述べて来たように、精神のドラマとして君主を自らに内化することである。 ところで、物語の君主に感情移入する場合を含めて、以上三のケースは、自我の運動としては全く同じことである。自我はその何れの場合に於ても君主の内包を生きるからだ。異なるのは、王位を得た場合に比べて、他の二つの場合では、君主の内包の意識が、普通には現実と呼ばれている夾雑物によって、しばしば中断されるという点であろう。しかし、王位の簒奪者も亦、直ちに気付くはずである。彼の手に入れようとしていたものが隠喩であり、彼の手に入れたものが現実に過ぎないことに。王位にある者は、王位の絶対性の観念に最も遠い者である。彼は初秋の冷気にすら自らの相対性を思い知らされるのだ。 君主への愛が自我の存在形式それ自体に、より厳密に言えば当為としての自我の実現への憧憬に由来するとすれば、君主が隠喩として以外に存在しようのないことは疑う余地が無い。君主とは優越の象徴だと言ってよいが、それは果たされた優越を象徴するのではなく、優越するという動態を象徴するのだ。だから、法律によって規定された君主は、法律が君主にどの様な権能を保証しようと、法律の言語が言語の宿命としての意味の限定に捉われている限り、「人々」の愛する君主ではない。言い替えれば、人々が君主を愛するのは、人々が君主を理解するからではなく、それを印象するからなのである。 そして亦、君主への愛が自我の存在形式それ自体に由来するということが、隠喩としての君主を、隠喩としての神に置き換えられない理由でもある。神=唯一絶対神としての神は、優越したものとして立ち現われるのであって、優越するべきものとして存在しているのではないのだ。そして自我は、完了ではなく、絶えざる拡張を目指す運動なのである。君主は神の如き絶対性を持つものとして想起される場合があるが、この絶対性は了解されたものではなく、主張されるものであり、その意味で、君主は常に存在論的危機にあると言える。つまり、君主は運動の絶えざる実現として人々に想起されるのであり、その隠喩的機能は、完了としての「神」では決して担い得ないものなのである。 先に、「君主」を、「その存在が組織として至高のものである、或は少なくともそれに優越する組織は存在しない、と或る者達によって考えられている社会組織に於て、彼等にとってその社会組織の中心と認められる世襲の人格的存在」と定義した。この定義は、極めて多様な君主の存在態を内包する。しかし、既にそれが隠喩であるならば、存在態の変異は問題ではない。これ等多様な存在態の全てが、その変異にも拘らず、各々隠喩としての役割を担い得るということが重要なのだ。彼等の共通点は中心性と世襲性(傍点)である。この内、中心性は優越の比喩となり得るであろう。もちろん、中心であることと優越することは同じではないし、優越は中心以外の比喩によって語ることが出来、中心は優越以外の内容を比喩することが出来る。しかし、中心と優越と二つの概念が持つ互いの諸属性の間に、共通のものを見出し得ることは確かであろう。つまり比喩の可能性が開かれていれば、それを比喩としたいと望む者は、そうするのである。ところで、もう一方の要素、世襲がある。何かが世襲されるとは、人生に於てそれが先験的に与えられていることに他ならない。ならば、先験的に中心である存在とは、中心であることに何時も成功している存在ということになろう。すると世襲の王位とは、〈優越の絶えざる実現〉の比喩たり得る資格を持つことになる。こうして存在態を様々にする君主達は、全て「人々」の君主であることが出来るのである。 今日、世界の殆どの君主制は立憲君主制である。それは歴史的に見れば、君主の権力とそれに対抗しようとした議会的勢力との妥協の産物に他ならない。しかし現代では、それは、政治の福利的効率を一定水準以上に安定的に維持するシステムと、国民個々のエゴイズムに対して一定の充足を提供するシステムとの並存を意味するもののように思われ.る(もちろん、前者が立憲制、後者が君主制に該当する)。 それにしても、君主制は不可欠なものだろうか。そんなことはない。現代世界では、君主制を採る国家の方が少数派である。しかし、既に見たように、君主制を採らない国家にさえ君主制への郷愁が認められるのであり、それは人間を精神的存在たらしめている自我の動態に淵源するのである。もちろん、固有の悲劇の克服が、不可避的に君主制の打倒を伴うのならば、人類はかつてそうして来たように、そうすべきである。しかし、その必要が認められないにも拘らず、人間の魂が世界を了解する方法への配慮を欠いたままに、世界をたゞ社会科学的方法に於てのみ把握し、打倒におもむくことがあるとしたら、それは人間自身への冒涜に他ならないであろう。 * * 最後に(これを言いたくて延々と書き連ねて来た訳であるが)、我が国の天皇制と、天皇制を有する国民の幸福について記しておきたい。 日本の長い歴史の中で、天皇制の維持、天皇という至高の存在が否定されたことは、殆ど無かった。皆無と言ってもいい位である。 ところで、天皇を至高たらしめたのは、経済力・軍事力と言った目に見える力ではなかった。宮廷が経済的に最も困窮した時、軍事的に崩壊した時でさえ、天皇は至高の存在であり続けたのである。 では、天皇を至高を保証ししているものは何だろうか。それは、人々による要請に他なるまい。天皇の元に在る「我」でありたかった人々が、天皇の至高を作り上げて来たのである。この時、天皇は国民一人一人の自我に内包されていると言えるのではないか。「葉隠」のエピソードのように。 天皇を仰ぐことは、天皇の前に小さな自己を認識することではなく、仰ぐべきものを持つ(所有する)大きな自己を感じることだったのである。 実質的な支配者から、<人々>に至るまで、そのように考えることが出来たのは、この国にとっての幸運、そして、この国の誇るべき知恵であった。 |
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